なるほどですね。
わ
る
ね
いきなり単文字を3つを並べた
のでついに頭がおかしくなったのかと思われそうだが、認めざるを得ない…
と頭がおかしいおかしくない話をしたいのではなく、言い方の話をしたい。頭はおかしいかもしれないが。
多忙なコンサル会社で働く友人に「どうやったら仕事効率的に進められんの?」と聞いたら
その日のうちに明日やることのリストを書いて、次の日はそのリストを消していくというやり方だった。
ゼロ秒思考とかで有名なやり方だとは思うけど、実践してるのはすごいなーと思うて自分もやってみている。
そして冒頭に戻ると、手帳に わ と る を連続で急いで書こうとしたら ね になってしまった。
ね ってなかなか手書きで書くことはない文字なんだよなぁと、
お前もニッチなとこで必要とされてるけど大衆に必要とされている字が羨ましかったりすんのかなー
し とか い とかメジャーすぎるもんなー
でもニッチな場所でも個性を出していくしかないんだよなぁ
というように ね にしみじみと同質化と勝手な同情をしていた。
実際、話し言葉では ね を語尾でよく使う。
なるほどですね。
内向的性格とその敵とは
今週のお題「行ってみたい時代」
ということで、題名には関係ないことを書いてみた。
性格診断というのをやってみたことは誰しもがあると思う。
自分というものは、意外と自分自身で自分の内面に気づくのはとても難しい。
というのも大体が気づかずに自分が行っている行動が相手に見られて、相手にとっては「そういう人だ」と認識されるのだから、
そこに自分の意志はないんだよね。気づくわけがない。
人は大体無意識の自分を見られているのだから自分自身がどういう人なんて、無遠慮をあえて言う優しい友達か、無神経な家族など、そういう人しか言ってくれない。
意外とみられている"ありのまま"の自分。
そこに自分の意識的に「こう見られたい」という行動が相手に伝わったり、伝わらなかったり、意図がバレたりするもんだから、
自分がどう見られているかなんて、聞いたって「いや、知らんて」と思うんじゃないだろか。
その点、性格診断なんて気楽でいい。
星座やアンケート、生年月日、手相、星の動きや人相で割り出してくれる。
実はこういう性格診断なんてのが好きで、Facebookで誰かがまともに見えるような心理テストとかやっているとよくやってしまう。
質問の後半からなんとなく追い込み漁に囲まれた魚の気分で連続的に性格を決めつけられていくけど、
結果的には"内向的な人間”と診断された。
まったくその通り、のような、釈然としないような結果である。
釈然としないというか、合っていたくはない結果だからだと思う。
就活の時にもさんざん言われたように、「コミュニケーション能力」が求められている時代だとつくづく感じる。
仕事が色々と舞い込んできて、優先順位をつけようにも分からない問題ばかりで対処法が分からない。
質問するとしても、「良い」聞き方が分からない。
まず自分なりに考えてから、と思うけれども、その途中でまた違う仕事の内容も考えるから混乱する。
先輩たちを見ると、簡潔に分からないところを質問して、どうすればいいですかね、と聞いている。
だから仕事が早く進む。
それが内向的な人間とやらにはなかなか難しくて、聞くことを遠慮するのと、そもそも今まで「人に聞いて仕事をしていく」ということをあまりしてこなかったのが響いている。
どの所属組織にいても、大体が特殊な位置にいたりして、好き勝手やってきたようなもんだから、改めて組織の中で働いていることというのが難しい。
あと、飲み会でも気軽に人と話すというのが本当に難しい。
目の前の会話が矢のように飛び交っていると、なかなかそこに入り込めないし、
そもそも矢が飛び交っていたら盾持ってすき間から「矢、すげえ飛んでるなぁ」と見ている人間には、そこに飛び込む勇気はなかなか持てない。
そんですき間から見ていたら「全然喋ってないよ!」とか矢を刺されて倒れるというね。
人にもよるんだろうけどなあ。
この前の飲み会では二次会から行く予定だったのだけど、
先輩から「バナナ買ってきて!」という謎のLINEが入っていたことに対して、バナナと青ネギをセットで買ってきたら意外と反応があった。
そんくらい意味わかんないことしてもいいなら楽しめるのだけども。
iPhoneと間違えた振りしてポケットからバナナを取り出してみたりもした。それはあまりウケなかった。
内向的な人間というのは扱いが本当に難しいと思う。
なにせ外交的な人間が、相手に向かって喋ったりするのに対して、
自分のような内向的な人間というのは、しゃべったことに対して自分がどう思われるか、を気にすることが多い。
だから会話をしづらい。
対相手じゃなくて対自分だから、味方は自分だし、敵も自分だ。
社交的な性格になりたかったな、とつくづく思う。
それが形成されるのは、おそらく小さいころなんだろうな。
自分では小さいころはよく活発で喋っていたと思うのだけども、
親や兄からは「お前は小さいころからあんまり喋らないから何考えてるか分からんかった」と言われる始末。
兄がとても活発で、社交的な人間で、なおかつ兄とは正反対の性格になろうとしていたから、
まったくの正反対の性格になった。つまり、あまり自己主張はせず、おとなしくいようとする、内向的な人間になるはじまり。
人とかかわるよりも、自分がどうしたいかの方が大事にしていたな。自己中心的というのは、おとなしいとは関係ないんだよね。
お題のタイトルにあるように、「行ってみたい時代」と言われたら、
内向的性格進行前の、おそらく小学校4年生の半ばあたり、
自分でオリジナル漫画描き始めて、小学校の「漫画クラブ」に入る前の「少年時代」に戻りたい。
そして、両手を肩にかけて、少年時代の自分の目をまっすぐ見つめてこう言いたい。
「いいか、カズヤくんにはな、自分の漫画に出てきたドラゴンのキャラをパクられたくらいで小学生時代2回くらいしかないマジ切れをするんじゃないぞ。そもそもお前の漫画の主人公のザックくんは3つ上の兄が描いていたオリジナル漫画のライトくんのモロパクリということを忘れるな。許してやれ。」
内向的な人間の少年時代は、きっと濃いネズミ色の歴史に彩られているんじゃないかと、周りの人もきっとそうだろうと、勝手に思っている。
〆
Ob-La-Di, Ob-La-Da
画像に本当に意味はないのだけど、以前書こうとした日記で使えなかったので。
実に久しぶりの休日らしい休日だった。
なんて幸せだったんだ。
夜12時過ぎて寝て、高校の時学年一かわいいと言われていた人が夢に出てきて、仲良くしゃべっていて、朝9時に目が覚めて、もう一度夢見たいから寝る。
もう夢には出てこなかったけど、なんて幸せなんだろうか。
二度寝が一番幸せだ。
寝るのが一番精神に良い。
ただ、自分には悪い癖があって。
人の話を聞いているとすぐ眠くなる。
発言する権利もなく、自分に関係ないなと思うと、急に眠気がくる。
高校のころから、大学の授業でも、そして会議などでも。
ボールペンで太ももを刺したり、つねったり、息を止めて自分を殺しにかかったり、あらゆることをするのだけれども、
やはり自分に関係ないなと思うと眠くなる。
会社のミーティングでも、やはりいつも大変そうで疲れている人はカクッとなっている。
分かるなぁと思いつつ、耐えているときやはりこんな顔になっているんだと思う。
眠いときの自分。
今朝の新聞で読んだのだけど、やはり眠くなってしまうときは刺激を与えても、それを刺激だと感じなくなれば眠くなくなるらしい。
そういう時、喋ることで眠気がなくなっていくんだそうな。
でも眠くなるときってたいてい喋りにくい時なんだよぁ
偉い人でもミンティア食べてたりするんだよな。
せっかくにおいを扱っているし、においで眠気をぶっ飛ばせればいいんだけどな。
スペアミントとかだと普通。
臭いのはいくらでも臭いのあるだろうけど、周りにも迷惑なんだよな
眠気が覚めるようなにおいってのは難しいけど、会議中に眠くなっても突然話を振られると冷や汗とともに眠気が覚めるから、冷や汗の出るようなにおいがいいのかね。
ただ単にいい匂いだとか、嫌なニオイとかではなく、アリやマウスみたいに危険を知らせるフェロモンを嗅いだら一発で眠気が覚める気がする。
そんな商品があったらキャッチコピーはこれだろう
「今のお前に足りないものがある。危機感だ」
幽遊白書12巻より。
明日からまた、危機感のある日々がはじまる。
日中のんきに寝ている暇はないけれど、あと4日働いて、寝よう。
〆
ものをつくるということ
果たしてものをつくることはできるんだろうか。
最近の悩みである。
なんとなくだけど大学時代から開発職を望み、開発者となり、生活に身近なものを作ることを考えていた。
実際大学時代の研究もマウスの精巣を光らせる手法の開発であるし、研究ってわけでもない。
目に見える形で自分の成果を残したいという思いで商品開発をしている。
しかし、商品を開発するということは、まったくもって難しい。
「商品」と「開発」この2つの言葉ですらなんとなくのイメージでしかなく、なんかものつくるんだねーってことしか想像がいきつかないし、人それぞれの解釈の商品が思い浮かび、人それぞれの解釈の開発という想像にばらける。
実際に商品を見る目というのは、日常の買い物を思い浮かべるにあたり、非常に厳しい視線が投げかけられるものだ。
例えば歯ブラシを選ぶときなんかを考えてみると、多少高いと思えば買わないし、他社の商品が安かったらなんとなくそっちを選ぶ、これにそこまでお金かけられないなということで一度手に取っても棚に戻される、CMが嫌いだからここはいいや、種類いっぱいあってよくわかんない、色が気に入らないからいいや、また来たときに買えばいいや。
ちょっとのことで購入意欲なんてなくなる。
メーカーの意向や込められた思い、開発経緯なんてそこにはない。
ただお客さんが見て、興味が湧かなかったらそれで終わり。
お客様は神様とやらであるし、実際自分も店に入れば神様側の視点でものを選ぶ。
商品開発っていうのは、どんな思いを込めたとしても、どんな経緯があったとしても、お客さんの心に響かなければ作ったものは買われない仕事なんだな。
でもなんとなく買う人もいる。
そういう人には何かしらのメッセージが届いている。
わずかな曲線や、胸を張って言える効果や、色、パッケージの形、文字の大きさ、触感、プラスチックのザラザラ感、キャッチコピー、ブランドイメージ、CM。
そういう「なんとなく買う」ようになってくれるために、商品開発としては矛盾がないほど筋の通った明確なメッセージが必要となり、その仕様を決めなければならない。
地獄のような作業の数だ。
洗濯ばさみだって、大きさやバネの硬さで使い心地がまったく異なるし、ほとんどが同じような形の中、どうやって差別化を図れるだろうか。
しかし差別化しなければ、安ければいいという双方が妥協した結論でものが売られ、その市場が腐っていってしまう。
売れなければ商品にならないし、儲からなければメーカーは成長できない。
売れるものを作るのが商品開発であり、「なんとなく買う」きっかけとなるための解像度の高いメッセージを作り、それに向けた仕様を作るのが開発作業。
深みにはまってしまいそうなほど難しい仕事を選んだなと思う。
前回で3回ほど役員の前で考えた商品をプレゼンするという機会をもらったのだけれども、
つくづく自分の発想力の低さに苦しむ。
自分の分野でお客さんを想定できない、買って使って喜んでくれる姿を想像できない、分からない。
本当にものづくりとして基本的な、そして欠けていれば致命的なマインドが自分にはないのではないかと、不安で仕方がない。
ある役員の方にプレゼン後に教えを乞うて、そのお礼をメールで送ったあとにこういうメッセージが返ってきた。
まずは自分がほしいと思うもの
まずは愛する人に心から使ってもらいたいもの
そういう喜んでいただけるお客様をきめたら、その人に何を言えば、そのことが伝わるかを考え
そしてほの人にしっかりと頭の中に価値を認識してもらい、
そういうパッケージにし、
価格にして、
どこで、どのように買っていただくかを考え。
そういうお客様がこれだけいるに違いない、何故なら・・・
というのを整合性といいます。
パワポの整合性というのは自分がどう見られたいか、自分に愛情を注いでいるにすぎません。
頑張ってください。
プレゼン後の質問時に「君は調査から入るのが本当によくないし、もったいない」「自分がやりたいと思うことを、ほしいと思うものを言うんだよ」「既婚女性20代といってもどういうお客様か分からないでしょう」という指摘をいただいて、
終わった後に5分でいいから時間くださいと言ったら「昼休みだけど15分くれるか!」と言ってマーケテイングの基礎の基礎を教えてもらった。
そのときのお礼としてメールに自分はパワポの整合性ばかりを考えていて、お客様のことをちゃんと見ていなかった、ということを伝えたら、上記のような文章が返ってきた。
熱い気持ちになったし、「そうだ、日用品って誰も傷つけずに幸せな気持ちにできるかもしれない、いやな気持を減らせる商品になれるから、日用品の開発を選んだんだった」と原点に気づかされた。
自分の中の独創性なんてどうでもよくて、お客さんが困っているから、それに基づいた発想が出てくるだけだ。
最近残業ばっかりだし、納期の交渉とかばっかりだから、何も開発できてないと落ち込んでいたのだけど、またがんばろうと思えた。
でも「ほの人」はなあ
「ほの人」が本当に惜しかったなあ
完全に決まり切らないからこそ、ちょっと笑えていいのかもね。
〆
いつかお店で出せるコーヒーゼリーを。
今週のお題「私のテーマソング」
ということで、お題をまったくの無視してお題だけ共有してアクセス稼ぎを図るのである。
中学生からブログを書いてきたものの、昨今のブログはとても凄い。
役に立つ情報を載せ、画像を載せ、小見出しをつけ、実に読みやすい。
より誰に見られるか分からなくなってきたのでより安全な内容をぶちまける。
動画を載せれば誰かが見てくれるので、アクセス数なんて手軽に稼げる。みんなこの歌いいでしょう?なんてね。
誰かが知識をまとめてくれるし、それを見れば大体のことは分かる。
今の時代、テキストサイトなんて誰に役に立つか分からないし、確実に減っているのだけども、結局そういう簡潔に、わかりやすく、小見出しつけて相手に伝えることばかり考えるのは疲れちゃう。
いいじゃんね、相手のことばかり考えると疲れちゃうよね。
ジャズライブに行ってみた。
FFとかドラクエなどのゲーム音楽やジャズの曲を吹けたらなぁと思って去年からアルトサックスを習い始めている。
昨年は院生なのに、修論3か月後なのに、ヤマハ大人の音楽教室なんて通っていた。上手くなったのは音階だけだろうか。
「もっと腹から出すんだよ! アァァァァア🎶 こんな感じで!ノドを使わない!ほらいま音が下に落ちた!もっと遠くに音を飛ばすイメージ!アァァーー♩♪ そう!今の音!」
という感じで。
中学生の授業でやっていたアルトリコーダーと琴で挫折してたから、音階読むのすら難しい。
卒業と共に上京し、新たな先生のもとに師事している。というより月2回怒られに行ってるようなもんだけど。
意外と有名な方のようで、名前を検索すれば出てくるし、音楽雑誌に数ページもらっているから凄いんだろうな。
確実に小学生のころ鍵盤ハーモニカなんて難しくて唾がやたらたまるものとしか思っていなかった初心者が習いにいくような人じゃないんだろうけど、そんな先生がライブをやるということで見に行ってみた。
お客さん1人だった。
びっくりした。同僚と3人で行ってみたら座っていた人みんな演奏者だった。
100人くらい座れるだろう広い箱でお客さんは俺と同僚と、先生の知り合いであろう人で4人。ぽつん、という言葉がお似合いだった。
なんかかんや仕方ないので聴くことに。
まぁさすがに上手いよなぁと思って、後半寝かけた。危うい。
ほとんど先生のオリジナル曲で、まぁ、あんまり分からんかった。
同僚は1stステージで帰り、俺は先生になんか聴きたいのあるか?と聞かれたから「枯葉」をリクエストしてみた。
なんか聴いたことあるー
って感じの始まり方だと思う。そのあとは個人個人でやり方違うみたい。そこが個性の出しどころなんだろうね。音階を滑らかに吹けない俺には成層圏の上の世界。
贅沢な夜だった。
あと知らないどこかの社長と知り合えた。こういう縁も楽しそう。そんなに打ち解けて喋ってないけども。
小見出し
というのはこういうことである。
実に分かりやすい。
やはり冗長になりやすい文章に対しては改行と小見出しが必要だ。
高校生のころはやったブログではやったら改行するやつとかいたけど。
明日も仕事だ。
昨日は結構いい調子だったけど
最後に発注書のミス見つかって危なかった
明日もがんばろう
みたいなね。
一体なんなんだそのすき間は。
やはり
改行を長くしすぎると
読みやすいような読みにくいような
あと
最近のブログで多いかなと思うのが
画像と一言載せて終わるパターンかな。
そういうのは、テキストサイトをずっとやってきた人間からしたら、その手法はずるい、なんて思ったりする。
友達から何だか凄いのもらった。
〆
あなたに会えたらうれしいわ
はじめまして、と書くのは何回目だっけ。書きながらそう考える。
中学生の時に友達と楽天ブログを始めた、テキストサイト全盛期のころかな。
面白い文章がそこら中に漂っていて、ヤムチャが1000人いたらどうなるか、なんて妄想など、できるだけリアルに、ときに設定を駆使して、笑いを取りに、画面上に数時間もかかったであろう作品が投げつけられていた。
キリ番なんて言葉もあって、ウェブ上で見える自分のサイトを見た人をなぜか祝う風習だ。あれは未だになんだったのか分からない。
キリ番1000番目踏み逃げ禁止! とかね。
あとはいかにリンク先を増やし、アクセス数を増やすかがステータスだった。
それはいまも変わらないと思うけど、アフィリエイトは主流ではなかっただろうから、純粋にネットというアングラな地帯でリアルでは誰にも知られずに有名になれるのが気持ちよかったんだろうな。
でも、自分が書いた文章が友達に面白いと言われ、知らない人が自分の文章を見てくれてコメントくれることがとても居心地がよかったのを覚えている。
まぁ、今見ると悶えるんだろうけどね。
過去の自分の文章というのは何度見ても痛々しい、けれど確かに自分で、指のすき間から見てしまう。
そんなわけで、これがまた未来の自分にとっての新しい痛々しさになることを祈って、はじめまして。
〆